建築主義★アルベルティから学ぶ★建築理論・設計・製図
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★アルベルティとは★
初期ルネサンスの人文主義者、建築理論家、建築家である
多方面に才能を発揮し、ルネサンス期に理想とされた「万能の人」の最初の典型と言われた天才。
アルベルティ家はフィレンツェにおいて銀行を営む有力商人貴族
しかし抗争によって1387年に国外追放された。
アルベルティは亡命先のジェノバに生まれ、1414年にはヴェネツィアに移住
早くから英才教育を受け、1421年にボローニャ大学に進む
彼はそこで教会法で学位を取得し、1428年に卒業。
以後は1432年に教皇庁の書記官となるまでヨーロッパを歴訪した
1432年頃、ローマに移住し、親友の仲介により教皇庁の記念物監督官となる。
エウゲニウス4世は、すでに建築事業顧問であったアルベルティの助言を仰ぐことを指示し、1453年から断続的に水路修復とトレヴィの泉の造営を行った。
しかし、トレヴィの泉は1732年から全面的に改修されたため、彼らの作品をみることはできない。
教皇庁において、アルベルティはキケロなどの古代ローマ時代の人文学に傾倒した。
特に彼の目を引いたのは、ウィトルウィウスの『建築について』であったと考えられる。
アルベルティは、そこに書かれている人体比例と建築比例の理論に着目し、これを基礎として、1451年までに著書『建築論』を完成
1485年になってフィレンツェで刊行された
アルベルティは、フィレンツェの有力な商人と親しく、1446年に起工されたパラッツォ・ルチェライの設計を行う。
これは全面的にオーダーを用いた最初の例
ファサードは明らかにローマのコロッセウムを参考にしている。
1446年10月31日に、サン・フランチェスコ聖堂を改装してテンピオ・マラテスティアーノとする工事が起工する
アルベルティは、正方形の組み合わせと単純な比例関係を構築し、総大理石のファサードを設計したが、これが完成したのは彼の死後、1477年である
1459年、ピウス2世に従ってマントヴァを訪れたアルベルティは、1470年に再びここを訪れ、二つの教会、サン・セバスティアーノ聖堂とサンタンドレア聖堂の設計を請け負った。
前者の設計は1460年に構想されており、1470年に修正、起工された。
後者は1470年に構想された、彼の最も影響力の大きい建築である。
ラテン十字の平面を持つこの教会堂には、古代ローマ神殿と凱旋門のデザインを適用しており、内部はブルネレスキのデザインしたトスカーナのロマネスク的バシリカ型とは異なる、堂々としたトンネル型ヴォールトを用いた。
1471年にもマントヴァに滞在するが、ローマに戻った1472年に死去した。彼は、親切で礼儀正しく、紳士的であったため、生涯を通じて尊敬された。
建築主義アルベルティ建築理論